11.適塾門下生「別府琴松」


20066

          

岡山県早島町 木村 丹(木村医院)

          岡山県倉敷市 松田俊悟(元山陽新聞社解説委員室室長)

          

はじめに

適塾の姓名録に記載された636人の門下生のうち約200人は身元不明といわれている。

姓名録番号216の「備中窪屋郡中島 別府真敬倅 嘉永四亥十月 別府琴松」(図1)

は不明のうちのひとりであるとの先入観があり、プロファイルを明らかにすべく調査した。

緒方洪庵伝(緒方富雄著)の壬戌旅行日記の中には、1862421日から22日にかけて

琴松が足守に帰省中の洪庵を訪問し面会したことが記載されている。当時の地名が残る

明治22年作成の地図で足守と上中島の直線距離は約13km(図2)。

姓名録と緒方洪庵伝のふたつの資料をもとに2005月1月に調査を開始した。

中島村1878年(明治11)に軽部村に合併吸収されたが、翌1879年に再び上中島村

として独立し、1889年(明治22)に周囲の計6ヵ村が合併して清音村となった。

1900年(明治33)窪屋郡は隣接する都宇郡と合併して都窪郡になり、さらに

2006年(平成183月清音村は都窪郡から離脱して総社市に編入された。

現在は総社市清音上中島という。


図1.適塾の姓名録「備中窪屋郡中島 別府眞敬倅 嘉永四亥 別府琴松」
図1.適塾の姓名録「備中窪屋郡中島 別府眞敬倅 嘉永四亥 別府琴松」
図2.明治22年に作製された地図 足守と上中島との直線距離は約13km
図2.明治22年に作製された地図 足守と上中島との直線距離は約13km


(図3) 

まず、「中島」の地名を手掛かりに倉敷市中島に出向き、別府姓を聞取り調査したが

有力な情報は得られず。その後、別の「中島」地名である清音村上中島に行き

20053月に墓を見つけた(現在の総社市清音上中島)。別府家の墓は計11基あり、

琴松の墓は後段、右から二つめに建てられており、墓碑銘文は比較的簡単で、

正面に「別府琴松夫婦之墓」、左側面に「明治三十年九月四日次男禎次郎建立」

とあった。


図3.別府琴松の墓(岡山県総社市清音上中島)
図3.別府琴松の墓(岡山県総社市清音上中島)

直系子孫

墓を見つけた後、岡山県歴史人物辞典(別府琴松について中山沃先生が記述)、

大阪市北区医師会報(1963年、琴松の曾孫 審一氏が記述)、適塾門下生調査資料、

清音村史などの資料を見出し、「別府琴松」はある程度調査されている人物であることが

判明した。これらの資料と日本医籍録(昭和4年と30年)から直系子孫である大阪府池田市在住の

別府慎太郎氏を捜し出し、20058月に訪問して150年間保有している未だ公開されていない

貴重な資料を見せていただいたのでそのうち重要な五点を提示する。


祖先過去帳(琴松の孫である諭一氏が大正元年12月6日に書き上げた)(図4) 


図4.祖先過去帳(大正元年、別府諭一
図4.祖先過去帳(大正元年、別府諭一

父 別府真敬について

「慈心院方譽眞敬居士 明治元年二月九日卒 新三月二日 

俗名 別府眞敬 行年七十三才」

母 別府 慶について

  「隋義院保壽妙慶大姉 明治十三年七月十日没 新八月十五日

   俗名 別府 慶 行年八十二才」

別府琴松について

「編照院見外大徹居士。明治二十七年八月一日卒、新八月三十一日 

別府琴松 行年六十二才」

妻について

「智光院霊照妙徹大姉 明治三十年七月十五日卒 新八月十三日 

別府多美 行年 六十三才」

  子息 覚太について

    「速成院正道妙覺居士 明治三十六年六月十一日卒 新八月三日 

別府覺太 行年四十七才」

                     などと記載されている。

 


記述年月日不明の父 真敬が書いた古文書(図5)

      備中山北 中島 医者 真敬

      右の者醫業心掛厚

      療治手廣致發行

      郷中為由相成候之

      苗字帯刀御免成候


図5.父 眞敬の苗字帯刀許可
図5.父 眞敬の苗字帯刀許可
図6.琴松の苗字帯刀許可
図6.琴松の苗字帯刀許可


庚午(明治三年)九月二十九日に書かれた古文書

(図6、図5に極めて形式が類似している)

      中島 醫 琴松 

右の者醫業心掛け

宜趣付内願通苗

字帯刀其身一代限

      御免成られ候

      庚午九月廿九日


明治6年小田県権令矢野光儀にあてた開業届けと思われる履歴資料(図7)

小田県平民

無禄           別府琴松

当酉六月三十九才九ヶ月

1.嘉永元年戊申正月ヨリ己酉九月迠浅口郡

玉島村石坂典禮ニ従ヒ都合一ヶ年九月間西洋

方医範提綱病学通論研究

1.嘉永三年庚戌十月ヨリ同四年五月迠小田郡

簗瀬村山鳴弘蔵ニ従ヒ都合八ヶ月間西洋方

内治ローセ人身究理書内科撰要研究

1.嘉永四年辛亥十月ヨリ大阪緒方洪庵ニ従ヒ

安政元年甲寅四月迠都合二ヶ年七ヶ月間西

洋方内治済生三方医療正始扶氏経験遺訓

研究

1.安政元年甲寅五月窪屋郡中島村於て開業

  右之通相違無御座此断奉申立候

 

明治六年八月        別府琴松

 

小田縣権令矢野光儀殿


図7.琴松の履歴資料
図7.琴松の履歴資料

子息 覚太の履歴明細書(図8)

       履歴明細書

              備中窪屋郡軽部村元中島

              第拾五大區百五十六番地

                 平民  

別府覺太

当丑二十二年三ヶ月

1.明治二年頃ヨリ実父同姓琴松ニ従ヒ同六年五月迠都合

  五ヶ年五月之門(間か?)同人ニ従ヒ西洋内外科研究仕候

1.明治六年六月ヨリ備中国浅口郡玉島村居住坂田雅夫ヱ

  入塾同七年十一月迠都合一年五ヶ月ノ門(間か?)同人ニ従ヒ西   

  洋内外科医術研究致候

  同七年十二月ヨリ備中窪屋郡軽部村元中島ニ於テ開業仕候也

  右之通相違無御座候間此段書上候也


図8.子息 覚太の履歴資料
図8.子息 覚太の履歴資料

結語 

独自に適塾門下生「別府琴松」の墓を見つけ出し、また子孫を捜し、見せてい

ただいた資料のうち重要な5点を紹介した。別府家の医業は琴松の父真敬を

初代として琴松、覚太、諭一、審一、慎太郎と六代続いている。前半の三代が

岡山県総社市清音上中島で開業し、後半の三代は大阪で開業医または勤務医である。

残念ながら、琴松の写真は現存しない。1963年の大阪市北区医師会報には当時の

種痘について若干の記載があり、琴松は中島の地で種痘にも尽力したと推測するが

このことに関する古文書としての資料は見られなかった。

 

 

稿を終えるにあたり、琴松から五代目の直系子孫にあたる別府慎太郎様

(大阪市池田市在住、大阪大学大学院医学系研究科教授)に150年間保有されている

貴重な資料を提示していただいたことを深く感謝致します。

 

参考資料

1.緒方洪庵伝 第二版増補版 緒方富雄著 P.349-350 岩波書店 1977

2.岡山県歴史人物事典P.889 「別府琴松」の項、中山沃 山陽新聞社

  1994

3.日本醫籍録(昭和四年版) 東京醫事時論社 1929

4.日本醫籍録(昭和30年版)醫学公論社 1955

5.清音村誌 清音村誌編集委員会編 1980

6.大阪市北区医師会報 洪庵先生百年祭にあたり曽祖父琴松を偲ぶ 

  別府審一 1963

7.適塾門下生調査資料 1968