2006年8月
早島町 木村医院 木村 丹
はじめに
医学用語はときに医学的理由によりときに社会的理由により名称が変化する。かつての
「疫病」という疾患群は徐々に原因が解明され「伝染病」といわれるようになり、
その後治療が進歩してさらに「感染症」に変わった。ここではいくつかのエピソードに
古い資料を添えて解説する。
1.疫病から伝染病へ
1200年以上前の奈良時代には「疫の病」と言われる疾患があった。体に触れると熱く、
見るからに苦しそうで、何日か経つと死亡するか回復する急性疾患の総称として使用された。
江戸時代には、奈良・平安時代に比べ、見た目だけの診断であるが分類が進歩した。
痘瘡(天然痘)、麻疹、水痘は一生に一度だけ罹る疾患と経験的に理解され、できるだけ軽く
済ませて長生きすることが健康面での願いであり人生のお役三病とされた。とくに天然痘は
顔にあばたが残ることから「見目定め」、麻疹は死亡率が高いことから「命定め」と恐れられた。
現在使われている「免疫」とは疫病を免れることに由来する。19世紀になると顕微鏡の発達に
よって細菌学と病理学が発展し、疫病の原因が徐々に解明され「伝染病」といわれるように
なった。その最初の使用は1810年橋本伯寿で、「断毒論」という著書の中で痘瘡、麻疹、
黴瘡がひとからひとへ伝染する「伝染病」であると述べている。その後岡山市足守出身の
緒方洪庵(1860-1863)が「病学通論」(1849年刊)の中で「伝染病」をより詳細に解説し、
さらに「感染」ということばも使用している。直ちに「伝染病」の用語が広く使われたわけ
ではなく、普及したのは1892年(明治25)に北里柴三郎が伝染病研究所を設立し、
さらに1897年(明治30)伝染病予防法が施行されてからのことである。
2.世界の細菌学の先駆者、パストウール(図3)とコッホ(図4)
Louis Pasteur(フランス人、1822-1895)は医師ではなく、高等師範学校を卒業した化学者。
当初、醸造に関する微生物の研究を始め、のちにひとに病気をひきおこす細菌学の研究へと
発展した。1888年にパストウール研究所を設立し所長に就任した。Robert Koch(ドイツ人、
1843-1910)はゲッチンゲン大学医学部を卒業した医師で、当初開業医であったが研究熱心であり、
誕生日に妻から顕微鏡を贈られ細菌学の研究の没頭し、後に妻とは疎遠になり離縁した。
1891年ドイツ国立伝染病研究所が設立され所長に就任。1901年日本人弟子である北里柴三郎の
招聘により来日した。コッホ没後にコッホの遺髪を神体としたコッホ神社が建立され、柴三郎の
没後には北里神社が設立された。北里神社は第二次大戦で焼失したため、その後ふたつを合祀した
コッホ・北里神社が東京都白金台の北里研究所内の一角に鎮座している(図5)。
2.「結核」と「tuberculosis」の由来
「tuberculosis」の「tuber」には「結節」という意味があり、「結」の字が共通することから
一見tuberculosisを訳して結核という疾患名が生まれたように思われるが全く異なる。
「結核」は7世紀に中国で初めて使用されたことばで、瘰癧(頚部リンパ節結核)で頚部が
累々と腫脹した状態を「果物の種が集合したような」すなわち「核(たね)を結ぶ=結核」と
表現した肉眼的所見に由来する。現在の結核を意味する疾患ではなく、肺結核は「虚労」、「肺労」、
「労際」などと表現されていた。一方、「tuberculosis」は1839年スイス人Shoenleinが肺結核
およびその他の結核を病理組織学的に検討し「tuber(結節)」の所見を認めることからドイツ語
「Tuberculose」と表現した。すなわち「tuberculosis」は病理組織学的所見に由来する
用語である。
結核とtuberculosisを結びつけたのは前述の緒方洪庵(図5)で、1857年に発行した
「扶氏経験遺訓(図6)」の中で「Phthisis tuberculosa」を「結核肺労」と訳した(図7)。
「Phthisis」は西欧で従来「肺結核」を指す用語で、わが国では先に示したように「肺労」
などと訳されていた。ちなみにコッホが結核菌を発見したのはさらに25年後の1882年のことである。
3.日本の細菌学の先駆者、北里柴三郎の隠れた業績(インフルエンザ菌の発見)
北里柴三郎(1853-1931、図8)は熊本県生まれで、幼少時は軍人になることを希望して
いたが父親に反対され政治家を志した。外国人との折衝を考慮し、まずは外国語を学ぼうと
オランダ人医師マンスフェルトが教授する古城医学所(熊本大学医学部の前身)に入学、
顕微鏡を覗いているうちに医学を目指すようになったといわれる。1883年に東京大学を卒業し
内務省に勤務するが、1886年1月から6年間ドイツに留学しコッホに師事した。留学中に
嫌気性菌である破傷風菌を純培養し、血清療法を開発するなどの業績を挙げた。
インフルエンザ菌の発見者は欧米では通常Richard Pfeiffer(1858-1945、ドイツ人、図9)
ひとりがあげられており、パイフェル菌との別名があった。わが国では北里柴三郎も同時期の
発見者と一部でいわれるが、その認識は十分ではない。そのことに異議を唱えた田口の
論文を参考にして原論文を調べた。Deutsche Medicinishe Wochenschrift(ドイツ医学週報)
1892年(明治25)No2(1月14日発行)の同じページ(P.28)にパイフェルと北里の論文が
掲載されていた。パイフェルの論文タイトルは「Vorlaufige Mittheilungen uber die
Erreger der Infuluenza(インフルエンザの病原体について治療の第1報)、図10」、一方、
北里の論文タイトルは「Ueber den Influenzabacillus und sein Culuturverfahren
(インフルエンザ菌とその培養性状について)、図11」で、いずれも「インフルエンザ患者の
喀痰からインフルエンザ菌を培養し、この菌がインフルエンザの原因である・・・・」と記述
している。田口は、「ドイツ医学週報には論文を受付けた日時の記載はなく、Pfeifferと
Kitasatoの論文はどちらが早く受理されたのかは類推することはできない。しかし、
2論文ともにインフルエンザ菌の純粋培養に成功したことを単独名で記載していることは
事実である。インフルエンザ菌の分離に最初に成功したプライオリテイーがPfeifferのみに
与えられていることは適切とはいえず、今後はこの菌の発見者についてはふたりの名前を
併記すべきであると主張したい。」と述べている。
4.インフルエンザの原因についての論争記事(図12)
スペイン風邪が大流行し始めた1918年(大正7)にはインフルエンザ菌は発見され
ていたがいまだインフルエンザの原因であるか否かは明らかでなかった。1918年11月の
東京朝日新聞にインフルエンザの原因菌であると主張する北里研究所と原因菌ではないと
主張する東京大学伝染病研究所との間に医学論争があったと報道された。インフルエンザ菌を
発見した北里が所長を勤める北里研究所は当然のことながら原因菌説を訴えていた。
この論争に決着が付いたのは、イギリス人Smith W、Andrewes CHらがインフルエンザ
ウイルスAを発見した1933年のことである。
5.伝染病から感染症へ
20世紀中ごろには多くの化学療法薬が開発され、伝染病の全てではないが確実に
治癒させることができるようになった。また同じ頃ウイルスがつぎつぎと発見され、
「伝染病」にかわって「感染症」という用語が使われるようになった。1967年(昭和42)に
東京大学附属伝染病研究所が東京大学医科学研究所に名称変更され、「伝染病」がひとつ消えた。
1974年(昭和49)に日本伝染病学会が日本感染症学会へと学会名が変わり、
この頃医学用語としての「伝染病」が「感染症」に変更されたといえる。さらに
1997年(平成9)国立予防衛生研究所が国立感染症研究所と名称変更され、
1999年(平成11)伝染病予防法が感染症新法に名称・内容がともに変わり、完全に「感染症」が
定着した。では「伝染病」が全く使われないかというとそうではなく、
新聞報道では一般用語としてときどき使用されている。
参考資料
1.結核の歴史、青木正和著 2003年刊 講談社
2.日本胸部疾患学会雑誌 1959-1960年に連載 、結核の歴史 岡西順二郎
3.生誕150年記念北里柴三郎 2003年刊 北里研究所発行
4.田口文明:インフルエンザ菌誰が最初の発見者か、日本細菌学雑誌 50(3):787-791