13.ワクチンの黎明


200610月)

早島町  木村医院  木村 丹

 

はじめに 

前回「感染症の黎明」というタイトルで名称の変遷について解説しました。「疫病」の原因が解明され「伝染病」といわれるようになり、その多くが化学療法によって確実に治療できるようになり「感染症」という用語に変わりました。今回は感染の予防に関する先駆けについて概説します。「免疫」とはまさに「疫病」を「免れる」ことで、そのための医薬品をワクチンといいます。世界で最初のワクチンはわが国で感染症がいまだ「疫病」といわれていた頃に開発されました。

 

1.牛痘接種法の開発

 人類の歴史とともに始まり不治の病として恐れられた天然痘は19世紀半ばまで世界中で猛威をふるっていたが、1980年にWHO(世界保健機構)は根絶宣言を発表した。疾患が終末を迎えたためか、根絶に尽力したジェンナーの名前が忘れ去られようとしている。江戸時代には「疱瘡(天然痘)は顔に痘痕が残ることから見目定め、麻疹は死亡率が高いことから命定め」といわれた。天然痘撲滅の成功は衛生状態の改善によるという社会の進歩にもよるが、200年以上前にイギリス人外科医師ジェンナー(Edward Jnner1749

1823)によって開発された牛痘接種法が第一の功労としてあげられる。18世紀半ばイギリスでは、天然痘の予防に一部で人痘接種がなされており予防効果はあるものの重篤な天然痘に発展する危険性があり、一方で乳搾りの女性たちが軽い牛痘に罹患した後に天然痘に罹患しないという事実が経験的に認識されていた。ジェンナーはこのことに着目し、1796年に使用人の8歳男子ジェームス・フィリップスに人工的に牛痘に感染させ、その1ヵ月後に人痘苗を植え天然痘を発病しないことから、牛痘接種の成功の第1例とした。

その後、ジェンナーは自分の子供も含めて実施した23例について1798年に「牛痘の原因および作用に関する研究」と題した論文を発表したが、学会からはありえないことと拒否され、自費出版したといわれる。強い反論に会いながらも安全かつ確実な効果は徐々に認められ名声を高めた。ワクチン(vaccine)の名称はラテン語の「Vacca(雌牛)」に由来する。天然痘の画期的な予防法は10-30年のうちにほぼ世界中に伝わったが、わが国で成功したのは約50年後の1849年。江戸時代に唯一外交関係があったオランダが1795年から20年弱の間フランスに合併され、長崎出島にオランダ船が入港しなかったことと、再びオランダ船が訪れるようになってからも牛痘苗を乗せて出港するインドネシアから遠過ぎるため新鮮な牛痘苗が日本に届かず、日本での実施は遅れた。1848年に初来日した出島商館医オットー・モーニッケ(ドイツ人、Otto G. J. Mohnike1814-1887)が持参した種痘苗は失活しており役に立たず。佐賀藩々医 楢林宗建の依頼によりモーニッケが翌18496月に再びインドネシアから取寄せた痘痂(かさぶた)を長崎通詞の子ら3人に接種し、そのうちのひとりにわが国で初めて牛痘接種を成功させた。


図1.子供に牛痘接種するジェンナー
図1.子供に牛痘接種するジェンナー
図2.モーニッケ
図2.モーニッケ


2.わが国での牛痘接種の普及

モーニッケ以前のことでは、まず1803年長崎出島商館長ドゥーフが幕府の翻訳官 馬場佐十郎に種痘情報を伝えたが、ふたりとも医師ではなく実施に至らず。安芸(広島県)の船乗り 久蔵が漂流して到着したロシアで凍傷に陥り下肢を切断、その後ロシア人担当医師の助手になり牛種接種を習得し帰国、種痘の実施を申請したが許可を得られず。1823年出島商館医シーボルト(1796-1866)が長崎で接種を試みたが失敗。また中川五郎治(1768-1848)という択捉島の番人頭が1810年前後にロシアに拉致・抑留され牛痘接種に似た方法を学んで帰国、1824年松前で天然痘が流行した際に牛痘をつくり接種したといわれるが普及しなかった。1820-1830年ころすでに一部の医師は牛痘法の優れていることを知っていたが良い痘苗が手に入らず焦慮していた。牛痘接種法がわが国に伝来し初めて成功したのは18496月のことであるが、たちまち長崎からひろがり、同年9月日野鼎哉(1797-1850)が京都に種痘所、11月緒方洪庵(1810-1863)が大阪に除痘館を設立し、また広島の三宅春齢、福井の笠原良策(1809-1880)らにより西日本には急速に種痘が普及した。岡山県でも翌1850年初頭に、緒方洪庵が足守除痘館を設立し、また難波抱節(1791-1859)とその門人らが三千人規模の種痘をおこない、牛痘接種の普及に尽力した。当時牛痘苗のことをvaccineをもじり「白神(ハクシン)」とよんだといわれる。一方、江戸は幕府直轄の地であるが故に種痘に反対する漢方医たちが勢力を持っており、種痘は蘭方医各自が細々と行うのみであった。しかしその効果はだれもが認めるところとなり、シーボルトの教えを受けた江戸在住の佐賀藩々医 伊東玄朴(図3、1800-1871)が中心となり、蘭方医82名が資金を拠出して牛痘伝来9年後の1858年にお玉ケ池種痘所(図4、江戸で初の種痘所)を設立した。種痘の効果が絶大であることから当初私設だった種痘所は1860年官立(幕府立)となり、西洋医学所→医学所→大学東校→東京医学校と名称を変更し、その後東京大学医学部に発展した。


図3 伊東玄朴(1800-1871
図3 伊東玄朴(1800-1871
図4.東京都千代田区(JR神田駅近く)
図4.東京都千代田区(JR神田駅近く)


3.ワクチンの進歩

 ジェンナーのワクチンは体表面に浸出した膿を接種するという簡素な方法であった。その後のワクチンは80年以上を経て、培養、ろ過、分離などの科学が発達してからで、パストール(1822-1895、フランス人 Louis Pasteur)が病原体を培養しこの弱毒物質を接種すれば免疫が作られる、という理論的裏づけを持って応用の道を開いた。1880年のコレラワクチン、1881年炭疽病ワクチンはいずれもパストールによって開発された。現在の三種混合ワクチンの基礎となるジフテリアワクチンはドイツ人ベーリング(図5)、破傷風ワクチンは北里柴三郎(図6)がいずれも1890年に作製した。図7に北里とベーリングが共著した論文タイトルを示した。ベーリングは1901年第1回ノーベル医学・生理学賞を受賞し、北里は候補に名前があげられた。


図5 Emil Adolf von Behring(1854-1917、ドイツ人)
図5 Emil Adolf von Behring(1854-1917、ドイツ人)
図6 北里柴三郎 (1853-1931)
図6 北里柴三郎 (1853-1931)

図6 Deutsche Medicinishe Wohenschrift(ドイツ医学週報)1890年12月
図6 Deutsche Medicinishe Wohenschrift(ドイツ医学週報)1890年12月

4.ワクチンの年表

天然痘     1796年   ジェンナー

コレラ     1880年   パストウール

炭疽病     1881年   パストウール  

破傷風     1890     北里柴三郎

ジフテリア   1890年   ベーリング

百日咳     1926

インフルエンザ 1945

ポリオ     1952年(不活化ワクチン、ジョナス・ソーク)

日本脳炎    1954

ポリオ     1960年(生ワクチン、アルバート・セービン)

麻疹      1964

流行性耳下腺炎 1967

風疹      1970

  水痘      1974

  肺炎球菌    1977

 

結語

①偉大な発見や発明は単なる偶然では達成できない。日ごろの知識の習得と

何かを成し遂げようという研究を積み重ねる努力の上に、偶然を偶然と見

過ごさない研ぎ澄まされた観察が必要だといえよう。

②天然痘は根絶宣言がなされたが、その予防法を確立し感染症予防のワクチン開発の先駆けとなった「エドワード・ジェンナー」の名前は忘れ去られることなくぜひとも後世に伝えなければならないと考える。

 

参考文献

1.生誕150年記念北里柴三郎 北里研究所発行 2003

2.出島の科学 長崎大学「出島の科学」刊行会編 九州大学出版会 2002

3.ジェンナー 世界の名医たち、歴史読本 1984

4.インターネット:ワクチンの年表

5.医学の歴史 小川鼎三 中公新書 中央公論社 1997