(2006年12月)
早島町 木村医院 木村 丹
1.はじめに
江戸時代まで医師の社会的地位はさほど高くはなかった。当時わが国の
外科的治療は18世紀後半に乳がん手術がごく一部でなされたが全体的には
皆無に近く、内科的には疾病の分類はある程度なされていたが、その治療は解
熱・鎮痛、鎮咳・去痰、強心・利尿といった対象療法が主体で、自然治癒を少
し手助けするに過ぎず、19世紀前半までは確実に治療できる疾病は限られてい
た。医師の診察・治療は「儀式+α」というと過言になるが、医師の社会的貢
献は限られたものでその存在は極めて重要ともいえず、当時位置付けられた社
会的地位はやむを得ないといえる。19世紀後半に麻酔や消毒の開発により進歩
した外科的治療が西洋から輸入され、また20世紀に開発された抗菌化学療法薬
で多くの感染症を治療し、自然治癒ではなく確実に生命を救うことができるよ
うになって、わが国の医師の地位は向上した。
2.化学療法の黎明
世界の化学療法の祖はドイツ人エールリッヒ(図1、Paul・Ehrlich、1854-1915)といわれる。ひとへの害が少なく、病原微生物に障害を与える物質を開発し、当初は「魔法の弾丸(magic builet)」と称された。エールリッヒは大学で医学を学んだものの、化学に興味を持ち細菌を染色する色素の研究をしており、色素が細菌を殺す作用に着目した。赤痢菌発見で知られる日本人 志賀 潔(図2、1871-1957)と共同開発したトリパノゾーマ病(アフリカで流行する嗜眠病)に対する「トリパンロート」(1904年)が第1号となる。ただトリパノゾーマ病は欧米で流行する疾患ではないため、この薬剤は世界に普及し広く使用されたわけではない。2番目はエールリッヒと日本人 秦 佐八郎(図3、1873-1938)が開発した「サルバルサン(salvarsan、一般名:arsphenamine)」である。Spirochaeta pallidumを接種した家兎に次々と色素合成薬を接種し、1910年606番目に有効な砒素製剤を発見した。サルバルサンの名称は、救う(salve)と砒素(arsenic)に由来する。この薬剤は約30年間、梅毒の特効薬として使用されたが、なにしろ砒素を含有するため効果とともに毒性も強く、後にペニシリンに主役の座を譲った。ちなみに秦 佐八郎は島根県出身で岡山大学医学部の前身 国立第三高等中学校医学部を卒業している。エールリッヒは1908年ノーベル医学・生理学賞を受賞した。
わが国でサルバルサンは開発の翌1911年に輸入され、三共合資会社(現在の第一三共株式会社)から発売された。図4はその広告であるが、筆者は三共(株)資料室に何度も連絡しこの貴重な資料を手に入れた。この薬剤の販売により、三共合資会社は多額の収益を得たと思われるが、1913年(大正2)に三共株式会社に発展し、1915年(大正4)にはサルバルサンは「アルサミノール」の商品名で国内生産された。
3.化学療法薬の進歩・・・ペニシリンの発見と実用化
イギリス人医師フレミング(図5、Arexander Fleming、1881-1955)がペニシリンを発見したのは偶然といわれるが、単なる偶然ではない。偶発現象を注意深い観察で見逃さなかったことが偉大である。商船会社に4年間勤務した後ロンドンの医学校を卒業。第1次世界大戦に軍医として従事し、多くの軍人が外傷後致命的な感染症に罹患することに直面した経験からその治療に有効な薬剤の探索を始めた。雑然とした実験室の中で散乱した培地を廃棄する前にふと見て一面がブドウ球菌の中にアオカビが生息し、その周囲には細菌の発育が阻止されていることに気付いた。アオカビを培養し、培養液のろ過した液に抗菌作用を持つ物質があることを見出し、アオカビの属名Penicilliumにちなんで「ペニシリン」と名づけ1929年英国実験病理雑誌に発表した(図6)。しかしペニシリンの効果を十分に発揮するための精製には成功せず、またこの論文が医学関係者に受入れられなかったため、その後約10年間忘れられていた。
1940年、オクスフォード大学のフローリー(1898-1968、H.W.Florey)とチェイン(1906-1979、E.B.Chein)がフレミングの論文を参考にして、ペニシリンを精製し動物実験を行った(図7)。1941年フローリーはアメリカに渡り製薬会社と交渉、より精製化したペニシリンで治療実験に成功した。1943年工場での大量生産にこぎ付け、第2時世界大戦でペニシリンは多くの兵士を救命した。フローリーとチェインは名誉を独占せず、フレミングの業績によることを公表し、1945年3名はノーベル医学・生理学賞を受賞した。
「ぺニシリウムの培養活性、とくにインフルエンザ菌の分離で使用することに言及して」
掲載誌ランセットの表紙(上)と論文タイトル(下)「化学療法としてのペニシリン」
6.Antibiotics(抗生物質)の命名、その後
フローリーとチェインがペニシリンの精製に成功した翌年、1941年ワクスマン(アメリカ、S.A.Waksmann)は「微生物によってつくられ、微生物 の発育を阻止する物質」をantibiotics(抗生物質)と提唱した。1943年には欧米でペニシリンが大量生産され、第二次大戦で負傷後感染症に罹患した兵士を劇的に救命した。1944年ストレプトマイシン、1945年クロラムフェニコール、1948年テトラサイクリンなどすぐれた抗菌力を有する抗生物質が次々と発見され、細菌感染症の治療は飛躍的に進歩した。わが国では、太平洋諸島の各地で日本軍が全滅となり始めた1943年12月にドイツから届いた医学雑誌のペニシリン記事(図8)を軍医が読んだことが契機になり、44年1月陸軍軍医学校でペニシリンの研究が始まった。また44年1月の朝日新聞記事で日本で初めてペニシリンが広く公表された(図9)。軍医学校での研究はわが国の医(基礎と臨床)・薬・理・農学研究者の先鋭で行われ、同年11月には粗製ながらペニシリンが実用化され臨床に使われた
(図10)。しかし物資の不足、工場の空襲で大量生産に至らず、45年8月の終戦を迎えた。
7.結語
①偉大な発見や発明は単なる偶然では達成できない。日ごろの知識の習得
と何かを成し遂げようという研究を積み重ねる努力の上に、偶然を偶然
と見過ごさない研ぎ澄まされた観察が必要だといえよう。
②19世紀後半から20世紀初頭にかけて、当時の日本は知名度や国力が十分でなかったためかノーベル賞受賞の栄誉には輝いた研究者はいないが、北里柴三郎はじめ日本人医学者 志賀、秦らはこの賞の授与に十分に値する偉大な発見・発明をしている。
参考図書
1.フレミング 中沢 滉著 世界の名医たち、歴史読本 1884年
2.医師の歴史 布施昌一著 中公新書 中央公論社 1979年
3.碧素・ペニシリン物語 角田房子著 新潮社 1978年
4.微生物学の歴史Ⅰ、Ⅱ R.W.Beck著 嶋田甚五郎・中島秀喜訳
科学史ライブラリー 朝倉書店 2004年
5.ペニシリンの歩み 日本ペニシリン協会発行 みすず書房 1961年
6.ペニシリンに賭けた生涯 L.Bickel著 中山善之訳 佑学社 1976年