15.東邦大学創設者ご先祖様のお墓を訪問して(3)

東邦大学創設者 額田 豊・晋先生の「生家」とご尊父「篤太」様の写真


岡山県早島町 木村医院 木村 丹(昭和52卒)

 

                           20072

 No6と7で東邦大学創設者額田 豊・晋先生の「ご先祖墓所」を紹介しました。

ご先祖墓所から約300mはなれた場所におふたりの生家が建っていましたが、

昭和55年頃撤去され、現在は不動産屋管理になっています。昨年(2006年)1月に

豊先生のご子孫になる額田哲様・美津様ご夫妻(美津様が豊先生の孫)を訪問、

さらに6月晋先生の孫になる額田 均先生(東邦大医47卒、額田医学生物学研究所

附属病院院長)を訪問し、それぞれから貴重な写真を見せていただきました。


図1.岡山県南の地図(長船は中央よりやや右)    額田 豊・晋先生は現在の瀬戸内市長船町大字飯井小字新田 (当時は邑久郡飯井村)でお生まれになりました
図1.岡山県南の地図(長船は中央よりやや右)    額田 豊・晋先生は現在の瀬戸内市長船町大字飯井小字新田 (当時は邑久郡飯井村)でお生まれになりました
図2.ご先祖墓所と生家跡地との関係、距離約300m、徒歩約5分。 (岡山県瀬戸内市長船町大字飯井)(地図は学長 青木継稔先生が作製されたものに加筆)
図2.ご先祖墓所と生家跡地との関係、距離約300m、徒歩約5分。 (岡山県瀬戸内市長船町大字飯井)(地図は学長 青木継稔先生が作製されたものに加筆)
写真1.現在の生家跡地の写真、不動産屋管理になっています。手前は千田川で右端に新田橋が架かっています。(2005年1月に筆者撮影)
写真1.現在の生家跡地の写真、不動産屋管理になっています。手前は千田川で右端に新田橋が架かっています。(2005年1月に筆者撮影)
写真2は、額田 哲様・美津様から見せていただいた生家撤去前の写真です。撮影年月日は不明。(原写真は額田 哲様・美津様所蔵)
写真2は、額田 哲様・美津様から見せていただいた生家撤去前の写真です。撮影年月日は不明。(原写真は額田 哲様・美津様所蔵)
写真3は、額田 均先生から見せていただいた生家撤去前の写真です。写真の裏に「年 昭和8年撮影、昭和55年頃撤去された」と記載されていました。ちなみに「年(みのる)」は豊先生のご長男で美津様のご尊父になります。写真2とは少し角度が異なっています。手前の左に千田川の一部が見えます。現写真は額田 均先生所蔵)
写真3は、額田 均先生から見せていただいた生家撤去前の写真です。写真の裏に「年 昭和8年撮影、昭和55年頃撤去された」と記載されていました。ちなみに「年(みのる)」は豊先生のご長男で美津様のご尊父になります。写真2とは少し角度が異なっています。手前の左に千田川の一部が見えます。現写真は額田 均先生所蔵)
写真4は両先生のご尊父 篤太様(裏に左から2人目と記載)。 いかにも教師らしい1人と学生らしい7人が写っています。岡山県瀬 戸内市長船町の篤太様の墓碑には「東京大学医学部に入学し、医学博 士樫村清徳に感化を受ける。明治17年に卒業・・・」とあります。東京大学 医学部100年史に「樫村清徳」は明治11年薬剤学教授として氏名が掲載 されおり、よってこの写真は篤太様が東京大学医学部在学中の明治10 年代に撮影されたもので、左から4番目が樫村清徳教授と思われます。(現写真は額田 均先生所蔵)
写真4は両先生のご尊父 篤太様(裏に左から2人目と記載)。 いかにも教師らしい1人と学生らしい7人が写っています。岡山県瀬 戸内市長船町の篤太様の墓碑には「東京大学医学部に入学し、医学博 士樫村清徳に感化を受ける。明治17年に卒業・・・」とあります。東京大学 医学部100年史に「樫村清徳」は明治11年薬剤学教授として氏名が掲載 されおり、よってこの写真は篤太様が東京大学医学部在学中の明治10 年代に撮影されたもので、左から4番目が樫村清徳教授と思われます。(現写真は額田 均先生所蔵)

以上、東邦大学のルーツに関する貴重な写真を紹介しました。