都窪医師会の起源と将来
2004年11月16日
早島町
木村医院 木村 丹
都窪医師会の「都窪」が地域名称である「都窪郡」 に由来することはいうまでもない。山手村と清音村 が都窪郡から離脱するため、2005年後半以降 都窪郡の構成する行政単位は早島町だけとなる。 早島町も将来倉敷市に合併される可能性は高く、 いずれ「都窪郡」という名称は消滅するだろう。 その際、「都窪医師会」の名称は存続するか?
将来のための問題提起としたい。
明治33年(1900)、東側の「都宇郡」と 西側の「窪屋郡」が合併して「都窪郡」が誕生。
19の町村から構成され、郡の役所は倉敷町に おかれた。
高梁川は昔、加茂村(岡山市加茂)のあたりで、 海に注いでいた。このあたりに船着き場(津)ができ、 繁栄した。周囲を含めて郡となり、「津の郡」すなわ ち「ツー郡」・・・・「ツウ郡」・・・漢字二文字をあてはめて 「都宇郡」となった、といわれる。
「窪屋郡」は、現在の倉敷市の北方に福山があり、 山と山の間のくぼみを窪山といったのを、「ま」を 省いて「くぼや」すなわち「窪屋」になった、 といわれる。
都宇郡 建部郷、河面郷、撫川郷、 深井郷
931-938年(承平年間)“和名類聚抄”
都宇郡 建部、撫河、深井、駅家
即ち、奈良時代初期に「都宇郡」の名称は みられる。
明治6年 弘道社
明治12年 一到社
明治19年 岡山医師組合
明治39年 医師法制定により、岡山市医師会
その他各地の郡市医師会が設立された。
大正初期 全国の郡市医師会が網羅された。
大正4年 県医師会設立(法令による)
大正9年 法定による県医師会設立
昭和17年 官製の医師会に改組
(大日本医師会ー岡山県医師会ー都窪支部)
昭和22年 民主的な県医師会と郡市医師会の設立
昭和23年1月 都窪郡医師会発足(初代会長 秋本運 氏)
秋本運先生(1893-1962)
創刊号 昭和45年12月発行 発行所「都窪郡医師会」
第二号 昭和46年9月 発行所「都窪医師会」
第三号 昭和47年9月 〃
第四号 昭和48年10月 〃
第五号 昭和49年12月 〃
第六号 昭和51年3月 〃
第七号 昭和52年3月 〃
高木 諦先生
「・・・・・・・今後都窪郡が、都市合併のため 地図から抹消されても、昔都窪郡という地域に、 都窪郡医師会があったという記録を残すことも出来ますし、又都窪郡はなくても、元の都窪郡地域で医師会として存続さしていくことも出来るからで あります。・・・・・・」
まさに現在もそのまま該当する文章であります。
第3号(S.47.9)
難波 英樹先生 「おかしな世間」
第6号(S.51.3)
平松 正勝先生「反省の日々」
第6号(S.51.3)
S.50 都窪医師会総会の写真
第1号の発行年が不明だが、S.55年4月と推測。
第2号:S.55年5月。
第3号:S.55年6月。
第4号:S.55年8月。
第95号:平成16年6月の現在に至る。
(S.46 吉備町、妹尾町、庄村、福田村が岡山市に合併)
(S.47 茶屋町が倉敷市に合併)
昭和23年 37(34) 平成5年 63(41)
昭和48年 38 平成6年 62(40)
昭和51年 40 平成7年 ?
昭和57年 47(39) 平成8年 71(43)
昭和58年 47(38) 平成9年 77(44)
昭和59年 46(39) 平成10年 84(45)
昭和61年 49(38) 平成11年 86(45)
昭和63年 52(39) 平成12年 93(46)
平成 2年 56(37) 平成13年 95(45)
平成 3年 59(36) 平成14年 97(46)
平成 4年 59(35) 平成15年 98
当面は「都窪医師会」で何ら問題ない。
将来、早島町が倉敷市に合併され、都窪郡の 名称が消失した際、「都窪医師会」の名称は 存続するか?変更されるか?
その時の執行部が考えれば良いことだが、・・・・・・。
個人的な希望・・・・・
とりあえずは存続させ、10-20年後に、 変更の声が大きくなれば変更すれば よい。