4.インフルエンザの歴史


20054月)

早島町 木村医院    木村 丹

 

はじめに

講演会などで医療の最先端の話を聞く際に、内容が最先端のことのみに終始すると理解し難いものがありますが、冒頭に最先端に至るまでの歴史に少しでも触れてあると、実に理解し易くなるものです。

インフルエンザに対する本格的な抗ウイルス薬(タミフルとリレンザ)が登場して5年目の冬を迎えることになり、インフルエンザの診断がより的確に求められるようになりました。そこで、インフルエンザという疾患をより深く理解するために、その歴史を辿ってみました。

 

1.インフルエンザ疾患名の歴史

 インフルエンザは、小児から高齢者まで全く元気だった人が突然に高熱をだし、寝込んでしまい、食事摂取が極めて少なくなり、時に肺炎や脳症で死亡することがあるが、放置しておいても4-5日間で回復する。また周囲に同様の症状を示す人が多数みられるという特徴的な様相を呈するため過去にこの疾患を示唆する記録は見出しやすい。

 B.C.412年に「ある日突然に多数の住民が高熱を出し、震えがきて咳がさかんになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり、住民たちは脅えたが、あっという間に去っていった。」という、まさにインフルエンザを示唆するヒポクラテスの記録がみられる1)。これよりさらに15年前に、医師ではないが、ギリシアの軍人ツキジデスが、「B.C.430427年、アテネにおける大疫病によりアテネ人に多数の死者が出て、アテネとスパルタとの間のペロポネソス戦争が終結した。」という記録を残している。この疾患は以前にはペストとか天然痘とか言われていたが、1985年にLangmuirが「大疫病はインフルエンザであったと推測する。」と発表している2)

 わが国ではどうかというと、ヒポクラテスに約1270年遅れて、「三代実録」という一般の書物に「1月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆・・・」とある(862年)。医学書では、わが国に現存する最古といわれる「医心方」(丹波康頼著)に咳 治療の項があり、“咳逆”を「之波不岐(シハブキ)」と訓読している(984年)。1008年頃発刊された源氏物語の夕顔の項に「この暁よりしはぶきやみに候らん、かしらいと痛くて苦しく侍れば・・・・。」とあり、これを作家で尼の瀬戸内寂聴氏は現代語版で「朝から風邪をひいて、頭が痛くて気分が悪い・・・。」と表現している。また大鏡(1010年)には、「一条法王がしはやぶきやみのため37歳で死去された」とあり、増鏡(1329年)には「今年はいかなるにか、しはぶきやみはやりて人多く失せたまうなかに・・・・。」と書かれている3。平安・鎌倉時代には、咳逆(しはぶき)・咳逆疫(しはぶきやみ)という疾患名があり、今日でいうインフルエンザを示すものだが、インフルエンザ以外の風邪症候群、肺炎、肺結核も含まれると考えられる4)

江戸時代に入ると、記録は詳細になり、インフルエンザを示す疾患を巷では「風」「はやりかぜ」と呼んだ。流行場所から、谷風(1784年、横綱 谷風梶之助が罹患)、薩摩風(1802年)、琉球風(1832年)、アメリカ風(1856年、開国により下田に上陸した米人が流行させたという)などと名付けられたという記録が残されている。医学書では、統一された用語はなく、“傷風”、“冒寒傷冷毒”、“天行感冒”、“時気感冒”などが著者により異なって使われた3)4)

 さて、「インフルエンザ」の名称は一般に認められているのが、1358年イタリア人によって用いられたのが最初で、「the influence of either the star or the cold weather」に由来する(influenceには「影響」という訳のみならず「天体が発する霊気が人に流れ込む」という意味がある)。その後、1782年イギリスでの流行の際に「インフルエンザ」の疾患名が世界に広く使われるようになり、定着した3)。わが国では、江戸神田の種痘所設立の発起人となった伊東 玄朴(1800-1871)がその著書医療正始の中で「印弗魯英撒」の用語を使用している。「医療正始」は、ドイツ医学書のオランダ語訳本をさらに日本語に訳したもので、1835に発刊され、現在は大阪市にある武田科学振興財団の蔵書となっている5)(図1)。流行性感冒の名称は1890(明治23年)の流行の際に使われ始め、1891年に発刊された愛氏内科全書(ドイツ人アイヒホルストの著書を廣瀬桂次郎が訳した)に記載されている(図2)。1890年-1891年以降わが国で広く使用されるようになった6)。「感冒」という疾患名は江戸時代に使用されたと先に記したが、いつが起源であるかはいずれにも記載はないため調べてみた。図書館で1600年代初頭に書かれた日本語-ポルトガル語辞書を全文邦語訳にし、「邦訳日葡辞書」として1980年に発刊された本を見つけた。その中に“canbow(カンバウ)”という“感冒”の発音に似た風邪を意味する記載があり7)、江戸時代に入る前の戦国時代から安土・桃山時代の頃に既に「感冒」という疾患名が存在したことが示唆された。遡って調べると、今のところ鎌倉時代の1304年に発刊された「頓医抄」が最初のようだ。さらに以前から「感冒」は中国語として使われており、この疾患名の起源は中国と考える。

 

2.インフルエンザ病原体の歴史

 1889年、ドイツ人Richard  PfeifferH.influenza(インフルエンザ桿菌)を発見し、これこそがインフルエンザの病原体であると報告した8)。当時は細菌学の盛んな時代であり、とりあえずはそれが認められた、というよりはあえての反論はなかった。それ以前は、何らかの外的因子による影響に起因すると考えられていた。地上に蔓延する神秘的な悪質因子である瘴気(ミアズマ)によるとの考えに支配されていた。ウイルス学はもちろん細菌学も散在しなかった頃ではやむを得ない考えと思われる。むしろ、日本語の「感冒」に表されるように自らつくる病気ではなく、何らかの外的影響に感作されて冒される疾患と考えられていたことは正しいことであろう。先に述べた愛氏内科全書(原著は1889年以前に書かれたと思われる)には、「流行性感冒の原因は瘴気というものではなく、患者との交際により感染しあるいは媒介者および患者の使用した物品により蔓延する・・・・・、伝染毒の強劇とその毒質に対する感受性から蔓延する。」と記載されており6)、未だ発見されていない病原体を原因と考えていたようである。H.Influenzaについては、Pfeifferの報告後しばらくの間は大きな反論はなかったが、1919年の過去最大の流行を呈したスペインかぜの際には大きく賛否両論に分かれた。わが国では、スペインかぜが流行し始めた際にPfeifferH.influenzaを支持する北里研究所とそれに反対する東京大学伝染病研究所との学問的対立が当時の東京朝日新聞(19181124日と1125日)に大きく報道されている(図3)。この時決着はつかず、1933Smith(英国)によるインフルエンザウイルス発発見)まで病原体の解明は待たなければならなかった。その後、1940FransisによりB型インフルエンザ、1949TaylarによりC型インフルエンザウイルスが発見された9)

 

3.インフルエンザ診断の歴史

 先にも述べたがインフルエンザは特徴的な発症と流行の様相を呈し、冬の流行時期は、症状聴取でほぼ70-80%が的中するといわれる。愛氏内科全書(1891年)の診断の項では、「本病は流行時に際してはその症候の顕著なるがために鑑識すること難とせず。然れども散在性に発症せる症を設定するは決して易事にあらず・・・・。」とある6)1933年インフルエンサウイルスが発見され、1941年にはHirstにより赤血球凝集抑制試験が考案された8)が、高熱で身動きのとれない状態の患者に対して直ちの診断には役にたたない。つい数年前まで患者を前にしては症状聴取による診断がなされていた。わが国でインフルエンザ抗原に対する迅速診断キットが発売されたのは1998年のことである。20031月現在では8種類の迅速診断キットがあり、そのうち6種類にA,Bの鑑別が可能とされている10)

 

4.インフルエンザ治療の歴史

 愛氏内科全書には、「臥床に就き、液性および淡白なる易化の食物を摂取し、室内の空気は湿濡にしかつ温度を平等ならしむを良とす。・・・対症療法を要することあり例之劇しき気管支炎あるいは去痰薬もしくは麻酔薬を用い虚脱においては興奮薬などを用いるが如し」とある6)。110年程前までは、安静臥床と極く初歩的な対症療法がインフルエンザ治療のすべてであったようだ。(私の調査が不十分であり、)いつの頃か明らかにできていないが点滴静注という脱水の治療は原因治療ではないものの、致死率を大きく下げたと推測する。またその後抗菌薬が開発され、合併症としての肺炎治療に大いに貢献したと考える。欧米でアマンタジン(シンメトレル

に抗ウイルス作用があるとして、A型インフルエンザの予防薬として使用されたのは

1964年のことである。但し、わが国でアマンタジンがA型インフルエンザの治療薬として保険適用になったのは、30年以上経った1998年11月と遅い。そして2種類のノイラミターゼ阻害薬(オセルタミビルとザナミビル)[タミフルとリレンザ]が許可されたのは2001年2月のことで記憶に新しい11)

 

5.インフルエンザワクチンの歴史

 インフルエンザウイルスが発見される(1933年)前の1919年3月9日(スペインかぜの流行時)の大阪毎日新聞は「感冒ワクチン」製造を当時の北里研究所が着手したと報道している(図4)。これは現在のインフルエンザに対するワクチンではなく、

1889年に発見されたH.influenza.に対するワクチンである。スペインかぜの猛烈な勢いのため、膨大な人数が羅患し、死者が続出するため、わらをもつかむ気概で製造を急いだものと推測する。本来のインフルエンザワクチンの接種がわが国で実施されたのは1950年で、A型の亜型はHoN1であった。ウイルス粒子をホルマリンで不活性化した全粒子ワクチンであり、その後1972年以降副反応を少なくする目的で、さらにエーテルで処理し、脂質部分を除いたワクチンが使用されている。1993年までで学童の集団接種が中止されたこともあり、全盛期には2963万人分製造されたワクチンが1994年には30万人分に減った。1998-2000年には、特養・老健などの老人ホームでインフルエンザの蔓延により死亡者が相次ぎ、社会問題となった。このことが影響してか、2001年の年末から65歳以上の高齢者に行政から補助が出されて予防接種が再び普及するようになり、1000-1200万人分が製造され接種者が増加した12)13)

 

6.インフルエンザパンデミックの歴史

 パンデミックは大流行と訳されるが、インフルエンザパンデミックは単なるインフルエンザの大流行ではない。A型インフルエンザウイルスの新しい亜型による大流行を意味する。従って、インフルエンザウイルスが発見される(1933)以前の大流行は真の意味での大流行になり得ない。ただ1919年のスペインかぜのウイルスの亜型は後の研究によりHと判明し、イタリアかぜやソ連かぜと同じ亜型とされた8)。20世紀には、①スペインかぜ(1919年、H1N1)、②アジアかぜ(1957年、H)、③香港かぜ(1969年、H)の計3回のインフルエンザパンデミックが世界を襲ったことになる。1919年(大正8年)の東京朝日新聞の記事にパニック状態が伺える(図5)。1998年には香港でHという新しい亜型のインフルエンザウイルスが出現したが、香港中の鳥を屠殺したため、またヒト-ヒト感染もおこらずパンデミックには至らなかった14)。最後のインフルエンザパンデミックから既に36年が経過する。遠くない将来、新しいA型亜型によるインフルエンザパンデミックが発生する可能性は十分にあると考えられる。

 

参考文献

1)      Marphy,B.R. and Webster,R.G.: Ortomyxoviruses in Fields Virology         

Third edition editerd by Fields B.N.et al.1397,

Lippinncott-Raven Publishers,Philadelphia,1996.

2)      Langmuir,A.D.et al.:The Thuchdides Syndrome.New/Engl. J.Med,

3131:1027-1030,1985

3)      加地正郎:インフルエンザ流行の歴史臨床と研究,2515-2521,1998.

4)      富士川 遊:流行性感冒日本疾病史(第2版), 181-198, 1944.

5)      伊東 玄朴(西肥)重訳漢越而實幾(和蘭)訳、毘斯骨夫(独乙)

医療正始. 1835.

6)      廣瀬 桂次郎訳:流行性感冒愛氏内科全書 第二十朝香屋書店.

1891.

7) 土井 忠生、森田 武、長 実訳:邦訳 日葡辞書、1980.

8) Smith,W.,Andreus,C.H.,Laidlaw,P.P.A virus obtained from influenza patient.Lancet,66-68,1933.

9) Beveridge,W.I.B.(林 雄次郎 訳):インフルエンザー人類最後の大疾病ー岩波新書. 1977.:

10) 山崎 雅彦、三田村 敬子、川上 千春:インフルエンザ迅速診断キットの現況インフルエンザ4:43-50,2003.

11) 池松 秀之:内科での抗インフルエンザ治療薬、インフルエンザ3:35-39,2002.

12) 高見沢 明久:インフルエンザワクチンの供給診断と治療 88

 2199-2203,2000.

13)細菌製剤協会発行:ワクチンの基礎細菌製剤協会発行 2001

14)堀本 泰介、八田 正人、河岡 義裕:香港トリインフルエンザ事情、

  インフルエンザ 3:134-137,2002.


図1.医療正始(1835年)
図1.医療正始(1835年)
図2.愛氏内科全書(1890年)
図2.愛氏内科全書(1890年)

図3.インフルエンザの原因について二つの学派(北里研究所と東大伝染病研究所)の対立(東京朝日新聞 1918年)
図3.インフルエンザの原因について二つの学派(北里研究所と東大伝染病研究所)の対立(東京朝日新聞 1918年)
図4.感冒ワクチン (東京朝日新聞 1919年3月9日)
図4.感冒ワクチン (東京朝日新聞 1919年3月9日)

図5.東京朝日新聞(1919年2月3日)
図5.東京朝日新聞(1919年2月3日)