6.東邦大学創設者ご先祖様のお墓を訪問して(1)

母堂 額田宇多様の墓碑銘文


東邦大学本館の前に額田宇多女史の胸像が建てられています。私は入学した当初から額田宇多女史とそのご子息で大学創設者の額田豊・晋両先生が岡山県ご出身であることは聞いていました。が、それ以上の話は誰からも教えてもらうことはなく、現在に至っていました。青木継捻学長が二00二年と二00四年のTOHO University  NOWに書かれた両先生生家跡地とおふたりのお墓を訪れたという記事を読み、また今年東邦会研修会を岡山で開催することと相まって、額田家ご先祖様のお墓を探し訪問致しました。このお墓については、既に一九九一年六月発行のTOHO University NOWに当時医学部三年生の橋本卓史先生(現 大森病院小児科)がお書きになっています。場所の詳細や墓石の碑文については記述がないので、ここに紹介させていただきます。

青木先生が紹介されたように、豊先生のお墓は鎌倉霊園、晋先生のお墓は雑司家ケ谷霊園にあるそうです(私は訪問したことがありません。今度行きます)が、ご先祖様のお墓は岡山県にあります。場所は瀬戸内市長船町飯井の生家跡地から山裾を300m程北西に回り、徒歩で約30m登った所です(地図は青木先生の記事に加筆)。近所の人に尋ね案内してもらいました。車がやっと通る細い道を進み、左側の畑が途切れた場所に駐車し、右側の溝に置かれた数本の木を渡ります。溝の手前からわずかに石門が見え、その10m奥に半分崩れかかった土塀に囲まれた200平方m程度の土地があり、ここが額田家ご先祖代々の墓所です。登り口から墓所に至るまで草木が繁っていますが、全く誰も通っていないことはなさそうで、だれかが時に掃除などの管理をしているのでしょう。極めて静寂です。

生家跡地と墓所があるこの地は、江戸時代には備前国邑久郡飯井村といわれていました。明治二十二年、飯井村、東須恵村、西須恵村の三つの村が合併して美和村に、昭和三十年、美和村、国府村、行幸村が合併して、長船町(おさふねちょう)となりました。行幸村の一部が長船といわれており、刀剣で全国に知られた「長船」の名前が優先されたようです。さらに平成十六年十一月、長船町、牛窓町、邑久町が合併して瀬戸内市となり、現在は岡山県瀬戸内市長船町大字飯井小字新田という典型的な田園地帯です。

ご先祖代々の墓は三世代にわたり、全部で十七基建てられていました。豊・晋両先生の曽祖父母太仲ご夫妻のお墓はほぼ中央に、祖父母一中ご夫妻のお墓は最も奥に建てられています。医家の家系であり、いずれも先生という文字が使われています。ご両親篤太・宇多様のお墓は中央の奥にあります。ここで気になるのが、ご母堂のお墓正面に「額田宇多子之墓」と刻まれていることです。今までお名前は「宇多」と伺っており、左側面には「・・諱宇多・・」とありますが、実際は「宇多子」かもしれません。それを裏付けるように篤太様の墓石左側面には「歌子」という文字が刻まれていました。また、第一回卒業アルバムの中に「額田宇多子刀自」という記載もあります。

 

ご母堂のお墓を見ると正面に、

「額田宇多子之墓」

左側面に、

「太夫人諱宇多額田氏考諱一

 中妣小幡氏贅福原直平五男

 篤太配以為嗣大正十四年九

 月十一日歿於東京葬先塋之

 域距生安政四年享年六十有」

後面に、

「九太夫人資性恭謹清淑克事

 良良歿継承其志育子慈而厳

如師父世人稱其徳生四男一

 女長男豊為醫學博士襲家次

 晋為醫學理學両博士次坦為

右側面に、

「陸軍大尉次貞為法學士女静

 嫁法學士小高卓爾法謚日積

 徳院慈弘妙貞大姉

     大正十五年九月

       牧村真並書」

墓碑を解釈すると

「額田宇多子の墓

夫人の生前の名前は額田宇多という。父の名は一中、母は小幡平次兵衛の娘。夫は福原直平の五男で篤太、養子として迎え、跡継ぎとした。大正十四年九月十一日、東京で亡くなり、先祖代々の(岡山県にある)墓地に葬られた。生まれたのは安政四年で、享年六十九。生まれつき慎み深く、かつしとやかであった。よく夫に仕え、夫が亡くなると、その志を継ぎ、子供たちを育てるのに、慈しむと同時に師匠や父親のごとく厳しくした。周囲の人たちはその徳を讃えた。四男一女をもうけた。長男 豊は医学博士で家督を継いだ。次男 晋は医学理学の両博士。三男 坦は陸軍大尉。四男 貞は法学士。長女静は法学士小高卓爾に嫁いだ。

戒名は、積徳院慈弘妙貞大姉。

大正十五年九月 牧村眞譔並書」

 東邦大学の創設者額田豊・晋両先生のご先祖様の墓所を訪問し、ご母堂「宇多様」の碑文はほぼ明瞭に読むことができ、紹介させていただきました。幕末に生まれ、明治・大正の激動の時代を生きた、典型的な良妻賢母であることがわかります。帝国女子医学専門学校の創立(大正十四年四月)から五カ月後の大正十四年九月にお亡くなりになりました。

                        合掌

ご尊父「篤太様」の碑文については医学部同窓会の「東邦会ニュース」に掲載されます。

 

(岡山県早島町 木村内科医院

 昭和五二年卒 木村 丹)

 

(碑文の解釈は、元山陽新聞社解説委員室室長 松田俊悟様にご尽力をいただきました)