(2005年8月)
東邦大学医学部 四十年卒 菊池武久
五十二年卒 木村 丹
五十四年卒 小林和司
東邦大学が額田豊・晋先生によって創設されたことはすべての卒業生がご存知と
思いますが、お二人が岡山県の出身であることは知らない人も少なからず・・・と推測
します。今年十月に東邦会研修会が岡山市で開かれることになりました。東邦
大学と岡山県との関係を知ってもらうため、額田家ご先祖様の墓所を紹介
させていただきます。豊・晋先生のお墓はそれぞれ神奈川県鎌倉と都内雑司が谷にあります。
ご先祖のお墓は、現在も人家が散在といえる田園地帯の丘の中腹にあります。
岡山県瀬戸内市長船町飯井で、十年以上前に家屋が撤去された両先生の
生家跡地から約三百m離れた場所です。道路から微かに石門が見え、水路に
かかった数本の木を渡り、三十m程登ると土塀に囲まれた墓所に到達します。
草木に囲まれ静かです。曽祖父母 太仲ご夫妻、祖父母 一中ご夫妻、
父母 篤太・宇多ご夫妻をはじめ十七基あるお墓はいずれも古く趣きのある
立派なものです。三代にわたる医家の家系(豊・晋先生は四代目)で、両先生の
祖父(額田一中)は額田文哉という名前で華岡青洲門下生の名簿に記載
されています。ご両親篤太・宇多様のお墓は中央奥にご夫婦別々に建てられ
ています。ここではご尊父「篤太」様の碑文を紹介します。
正面には、
「額田篤太之墓」
左側面に、
「君諱則重幼名徳太長改篤太美作國
勝北郡大町村福原直平五男妣小林
氏安政四年四月生其郷明治四年三
月備前國邑久郡飯井郷醫士額田一
中養君為子以其女歌子配君性寛厚
沈毅初就山田方谷池田某春日某學」
後面に、
「漢籍後入東京大學醫學部又親灸醫
學博士樫村清徳十七年二月卒業歸
郷黽仁術病者皆曰一被君治療死無
憾相争乞治門前為市惜哉罹胃疾逝
實三十四年十一月一日也享年四十五
謚積譱院慈海弘深居士君生四男一
右側面に、
「女長男豊承祀豊為醫學博士名聲嘖
々次男晋亦為醫學士三男坦四男貞
長女静子適人厥家己有経紀追遠効
金石徴文余々嘗接君見體貌壮偉擧
措不迫興其性格相稱
大正二年二月黙雷中江理一郎撰」
と、文字はほぼ明瞭な状態で刻まれていました。
解釈すると
「額田篤太の墓
君、生前の名前は則重、幼名は徳太、成人して篤太と改名した。美作の国
勝北郡大町村(岡山県勝北郡勝田町大町)福原直平の五男で、母は
小林家の出身。安政四年四月、大町村で生まれた。明治四年四月、備前の
国邑久郡飯井村の医師額田一中が養子とし、その娘歌子と結婚させた
君は心大きく寛大、沈着で意思強く、はじめに山田方谷(備中国の高名な
漢学者)、池田某(兵庫県養父郡南町=現、八鹿町の池田草庵)、春日某
(京都の春日潜庵)に漢籍を学んだ。後に東京大学医学部(別課医学
らしい)に入学し、医学博士樫村清徳に感化を受ける。明治十七年に卒業し、
帰郷。人情厚い医術に努めた。治療を受けた病者は皆、ひとたび治療を受けたら、
死んでも憾まないと言い、争うごとく、門前市をなす。惜しいことに、胃疾患に罹り、
逝ってしまった。実に(明治)三十四年十一月一日。享年四十五であった。
積譱(ぜん)院慈海弘深居士と謚(おくりな)された。君は四男一女をもうけた。
長男 豊は家督を継ぎ、医学博士となり、口々に褒めそやされる存在だった。
次男 晋もまた医学博士になった。三男は坦(ひろし)、四男は貞。長女 静は
他家に嫁いだが、よく一家の暮らしを立て、先祖の祭りも丁寧に行なった。
わたしはかつて君に接したが、体格は大きく立派、振舞い方は悠揚迫らず、
その人柄(性格)を引き立たせ、讃えられる。大正二年二月黙雷中江理一郎撰」
ご尊父の名前は幼名が「徳太」であったことから、「篤太」は「とくた」と読むのでは・・・と思われます。
東邦大学の創設者額田豊・晋両先生のご先祖様の墓所を訪問し、
ご尊父「篤太」様のお墓の銘文を紹介させていただきました。
合掌
(この記事は東邦会ニュース2005年5月第76号に掲載されました。
墓碑銘文の解釈は、元山陽新聞社解説委員室室長 松田俊悟様に
校閲をお願いしました。)