(2005年9月)
早島町 木村医院 木村 丹
はじめに
内視鏡、超音波、CT,MRIなど診断機器は日進月歩に発達しているが、
診断のために最初に使われた機器は1816年のラエンネックによる聴診器であると
周知されている。では道具を使わない打診法はいつごろ考案されたかというと、
さほど昔ではない。1761年、オーストリアのアウエンブルッガーによる。
これらふたつの診断法について起源を探ってみた。
1.打診法の考案
Leopold Auenbrugger(1722-1809)(図1)は、オーストリアの南部グラーツで
旅館兼居酒屋を営む家に生まれた。父親が酒樽を叩いてその中に入ったワインの
残りの量を調べていたことが影響を与えたといわれる。またアウエンブルッガーは
子供の頃からたいへんな音楽好きで、幼い頃から音感に優れた能力を備えていた。
ウイーンの医学校に学び、その後1本の指で胸壁を叩きながら心臓と肺で異なる
音が出ることを調べた。さらに鈍い音を発する部位に一致して肺の病巣が存在する
ことを病理解剖で確かめ、1761年に「新しい考案、胸壁の叩打によって胸郭内部に
隠れた病気の病徴をみつけるために」という論文を発表。なにごとも画期的な
新知見は直ちには正当に評価されないことがあり、しばらくは打診法の価値は認め
られなかった。フランスのコルサヴィールが1808年心臓疾患の診断に有用な
「打診法」を紹介し、さらに1810年アウエンブルッガーの「新しい考案・・・」を
フランス語に訳して出版、その後「打診法」は世に広まり、現在まで続いている。
2.聴診器の発明
胸に直接耳を当てて聴診する方法は古代ギリシアの時代から行われていた。
Rene-Theophile Hyacinnthe Laennec(1781-1826)はフランスのブルターニュ半島で
生まれ、パリで医学を学んだ。心臓病のある太った女性の胸に耳を当てたが心音は
良く聞こえない。子供の頃棒の端をがりがりとこすり他方の端に耳を当てて音を聞く
遊びを思い出し、ノートを丸めて婦人の胸に当て聴診すると明瞭に心音が聞こえた
(1816年)、というのは有名なエピソードである。ラエンネックは木製の聴診器を作り、
呼吸音や腹部聴診所見と剖検で得られた肺疾患や腹部の所見を比較して、1819年
「間接聴診法」の論文を発表(図2、3)。聴診器の発明により、結核、気胸、肺炎、
心疾患の診断は格段と進歩した。母親もそうであったが、ラエンネックも肺結核で
死亡した。
3.パターナリズム(親権主義)に拍車?
打・聴診がない頃、疾患の診断のためにはもっぱら症状聴取と脈診が主流であった。
患者の訴えが診断の重要な情報源になっていたため、医師は患者の話しをよく聞いた。
ところが、打・聴診が診断の基礎として定着した時、医師・患者関係に大きな変化が
起きる。医師が打・聴診の所見を重要視し、患者は病気の正確なことなどわかるはずが
ないという先入観を持つようになり、患者自身が自覚できない所見が一人歩き始めた。
診断・治療について、医師は任されて当然、患者は任せるしかない、という
パターナリズム(親権主義)の基礎は紀元前のヒポクラテスの頃から存在したが、
それが促進されたようだ。
4.聴診器の日本への伝来
モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike,1814-1887)(図4)は、長崎出島の
オランダ商館医の中で最も名が知られたシーボルト
(Philipp Franz B.von Siebold, 1796-1866)と同様にドイツ人で、ドイツの大学で
医学を学び、オランダ陸軍に雇われ来日した。シーボルトの来日から25年経った
1848年のことで、その際、天然痘予防のための牛痘接種法と聴診器というふたつの
重要な最新西洋医学をもたらした。
5.聴診器のその後
ラエンネックの聴診器は図2のように筒型であったが、1850年頃アメリカで現在の
ような両耳用の聴診器が開発され、全世界にまたたく間に広まった。1950年頃の聴診器は
皮膚への接触部は象牙でつくられており(図5)、その後ベル・膜型となり、21世紀に
入ると電子聴診器(図6)が開発された。6人分の聴診音が記録され再生可能、
また音を18倍に拡大でき、パソコンに接続すると心音グラフとして見ることができる。
教育用には極めて優れているといえる。
参考文献
1)出島の科学 長崎大学「出島の科学」刊行会編 九州大学出版会2002
2)医学史への誘い 酒井シズ 診療新社 2000
3)検査を築いた人びと 酒井シズ、深瀬泰旦 時空出版 1988